言葉によって現れる世界
この世界
どこまで洞察を研ぎ澄ませても
どこまで感覚を研ぎ澄ませても
真実な現実を見ることはできない。
というよりこれが真実だ!なんて存在しえない。
すでに認識できるように人間は生まれている。
目の前のこれが空というもので、の以前に空とはどういうものか、何を空というのか、そして空とするにはどんな要素が必要なのかを、すでに認識できるように生まれている。その発達段階は様々だけど。
誰も、「空」以前のそれ、空とはどういうものかを認識する以前の、「どういうものか」の以前のそれ、「要素」という前のそれを誰も知り得ない。
すでに認識された、認識できる世界に生まれた私たち。言葉するときには、すでにその言葉を使い認識されるための前提となる認識が、ぼんやりとでもなくては言葉は言葉の機能を発揮できない。
世界への認識があるから、地球に安心できたりする。人が地球にグラウンディングできるように、眼前の世界を認識するための要素がすでに生まれる前に内蔵されて生まれてくる。
言葉は真実、事実、現実を正確に捉えるために使われるのではなく、真実、事実、現実を言葉によって存在させるために言葉を使う。
目に見える世界も、目に目ない世界も、言葉によって存在でき、そして様々な創造的な言葉の表現で多層の多次元的現実が生みだされている世界、地球。
認識の幅が意識の幅に呼応する。
どれだけ認識に創造的な遊びをゆるしていけるか。
広大無辺なエネルギーの世界が高らかに笑いながら私たち人間を待っている。
おーい!遊ぼーって。
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